[RIDE THE LIGHTNING] Chapter35

〔ワシントンD.C. グレゴリオ暦2061年9月24日 02:15 p.m. -5〕

 アーノルドは、ワシントンの病院の無機質な廊下に置かれたベンチに腰掛け、傍らの幼い息子ジョンの手をそっと握りしめながら静かに語りかけた。

「もうすぐだ。ママに会える」

 ジョンはきょとんとした表情で首をわずかに傾け、大きな瞳を父親へと向けた。

「僕、怖いことないよ?」

 その言葉にアーノルドは一瞬息を飲んだ。

 ――そうだ。ジョンにとっては、ただ久しぶりにママに会えるというだけ。ただそれだけのことなのだ。

「あ、ああ。そうだな」

 自分でも驚くほどぎこちない返事をする父に、ジョンはさらに不思議そうに小さな頭を今度は反対側へと傾けた。

 その時だった。

「カービー将軍、ちょっと」

 背後から冷たく乾いた声が響いた。振り返ると、白衣をまとった男が硬い表情で立っている。

「ああ」

 アーノルドが重い腰を上げると、ジョンも父の真似をして立ち上がった。

「いえ、お父様だけで」男が静かに、しかしきっぱりと告げる。

「そうか。ジョン、ちょっとここで待っていてくれ。すぐ戻る」

「はーい」

 ジョンは無邪気に返事をすると、再びベンチにちょこんと腰掛けた。アーノルドは息子の無垢な姿に複雑な視線を送りつつ、白衣の男と共に通路を少し離れた角まで歩き、そこで立ち止まった。

 男は角からちらりとジョンの様子を窺ってから、アーノルドに小声で言った。

「これが入室許可証です。今回は面会希望とのことですので、機能停止キーも兼ねています」

 男は胸ポケットから慎重にカードを取り出し、まるで触れること自体を嫌がるかのようにアーノルドへと差し出した。

「ああ」アーノルドはそれを受け取ると、じっと表裏を確かめる。

「それと、あなたのカードで一緒に入室できますが、一応これは息子さんの分」

「助かる」

 アーノルドが差し出されたもう一枚のカードを受け取ろうとすると、男はその手を引っ込める。

「感心しませんね。あなたほどの人物の圧力でもなければ、あんな小さい子のために許可は下りない」

「分かっている。しかし、子が親に会いたいと願うのなら、多少の不正を冒してでもそれを叶えてやりたいというのが……」

「ここに子供の立ち入りが禁じられているのは、この先にあるものが、子どもに見せるべきものではないからだ」

「……私の妻は違う」

「聞き飽きた台詞ですね。ここに来る見舞客は皆そう言って病室に入り、それから二度と見舞いに来なくなる」

 白衣の男は呆れと諦めの混じったため息を漏らした。

「そう言えば大人しく帰るとでも?」

「まさか。忠告が聞き入れられた試しなど、ただの一度もありませんし。ですから、これは私の自己満足です。無意味と分かっていても、言ってやらないと気が済まないんです」男は淡々と言い放つ。

「ならば私も、自己満足でもなんでも、我を通させてもらう」アーノルドは静かに言い切る。

「どうぞ。元より私は、特権のあるあなたの意志をどうこうできるような立場にありませんので」

 男はわずかに肩をすくめた。

 アーノルドが男に背を向けてジョンの元へ戻ろうとした瞬間、背後から再び声が投げかけられた。

「私の心配が稀有であることを祈っていますよ」

 アーノルドはその言葉に一切反応を示さず、ジョンのいるベンチへと戻った。

「それじゃあ、行こうか」

「うん」

 ジョンは飛ぶようにベンチから立ち上がる。
 アーノルドはジョンと手をつなぎ、通路を行く。
 通路の先で待つ白衣の男と顔も合わせず、

「案内しろ」と命じる。

 アーノルドは白衣の男に先導させ、両開きの扉の前へと至る。
 男は、扉の横に備えられた電子ロックを指し示す。
 アーノルドは頷き、カードをかざす。

 扉が開くと、院内の消毒液の匂いが混じった空気とはまた違った、揮発したプラスチックの香りが薄っすらと漂ってきた。
 病室の中央には――白い台座と、それに被さる半透明のドーム。
 バイソン社製ブレインマシンインターフェイス、Aletheia(厳密には装置の大部分は生命維持装置だが)。
 その中に眠る女性の揃えられた素足がこちらを向いて出迎えている。

「ママ!」

 ジョンは装置に駆け寄ると、両の手をドームに押し当て、母の顔を見つめる。
 アーノルドも台座の側面に回り、妻の様子を伺う。
 何年も眠り続けていれば、もっと変わり果てた姿になっているものとばかり思っていたが――少し痩せて、肌の赤みが減ったようにも見えるが、ほとんど彼の知る妻の姿そのままに見えた。
 それどころか、心なしか、以前よりも若返っているようにさえ思える。

「ジョン、少し離れて」

 ジョンが装置から離れたのを確認すると、アーノルドはカードキーを取り出し、白衣の男と顔を見合わせる。
 白衣の男は目を閉じ、頷き(項垂れ?)つつ、微笑んだように見えた。

 アーノルドは装置にキーを刺す。
 と、ドーム状の蓋がレールに沿って静かに引き込まれていく。

 薄い冷気がにじみ、まぶたが震えた。ゆっくりと視線がこちらへ合い、焦点が結ばれる。

「……あなた?」

 アーノルドは妻レティシアの懐かしい声に思わず目を見開き、目頭を熱くした。

「ああ、そうだ。そうだよ」

 レティシアは状態を起こすと、装置の傍で驚きのあまり硬直したジョンに優しく微笑みかける。

「おいで」

 ジョンはレティシアに駆け寄り、身を乗り出す。
 レティシアは自然に腕を広げ、抱きとめる。

「大きくなったわね。本当に……それだけ、長い夢だったということね」

「ああ……ジョンは、来月で10歳になる」

「そんなに……」

 その言葉を、レティシアは何度も繰り返した。やがて、彼女はふっと息を吐き、まるで長い間張り詰めていた糸が切れたかのように、穏やかな表情になった。彼女は涙ぐみながらも、優しく微笑んだ。

「ごめんなさい、二人とも。心配をかけてしまったわね」

 レティシアは息子を強く抱きしめ、その髪に顔をうずめた。

 アーノルドは、レティシアの謝罪に対して反射的に喉元から飛び出しそうになった言葉をぐっと飲み込んだ。
 それはたぶん、「いいんだよ」だとか「気に病むことはない」だとか、そういった言葉だったように思う。
 実際、Aletheiaの夢に囚われたこと関してレティシアには何の責任もない。
 咎を受けるべきはむしろ、愛する妻を信じることが出来ず、今日という日に至るまで、こうして装置から出してやらなかった自分の方だ。
 しかし、今ここでレティシアの「心配をかけた」という言を否定することは、アーノルドやジョンにとっての彼女の価値を否定することに思われたし、なにより、このなにより喜ばしい時にあって、自らの罪悪感を吐露することで場の空気を乱したくはなかった。

 アーノルドはただ、レティシアに優しく微笑み返した。「あなたのパパは、ちゃんと良い父親をしていたかしら?」

「うん!」ジョンは力強く頷いた。「パパが自転車の乗り方を教えてくれたんだ。もう補助輪はいらないんだよ」

「まあ、すごいじゃない」

 レティシアは顔を上げ、アーノルドと視線を交わした。

「あなたも、少し痩せたかしら」

「君がいないと、食事も味気なくてな」アーノルドはそう言って、妻の手にそっと自身の手を重ねた。「でも、もう大丈夫だ。君が戻ってきてくれた」

「ええ……」レティシアは夫の手を握り返す。「じゃあ、今度は私が腕によりをかけて作るわ。あなたの好きなアップルパイもね」

「アップルパイ?」

 ジョンが不思議そうに母を見上げた。

 アーノルドも、そんなものを作ってもらったことがあっただろうか、と疑問がよぎる。
 君の得意なのは、と口にしかけて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。「ああ……食べるのが、楽しみだ」

 アーノルドがそう言うと、ジョンの弾んだ声が病室に明るく響いた。
 失われた時が、今、取り戻されようとしているように感じられた。

「そういえば、ジョン。ガフは元気にしてる?」

 レティシアがそう言って微笑むと、ジョンは不思議そうにアーノルドを見上げた。

「ガフって?」

「あの白い馬よ。あなた、とても可愛がっていたじゃない」

 ジョンは困惑した表情で首を横に振った。「僕たち、馬なんて飼ってないよ」

 レティシアの顔から、すっと血の気が引いた。
 彼女の瞳が大きく見開かれ、ジョンの顔と、アーノルドの顔とを交互に見る。
 その視線は、答えを探して彷徨う子供のように心細げだった。

 ガフ。輝くような白い毛並み、額から伸びる一本の角、その温もり。
 それらは、ついさっきまで見ていた光景のように鮮明なのに。

 レティシアは、喉元までせり上がってきた混乱をぐっと飲み込むと、無理やり唇の端を引き上げ、か細い声で言った。「ごめんなさい、長く眠っていたから、少し記憶が混ざってしまったみたい」

 アーノルドは「目覚めたばかりで、混乱しているんだ」と優しく声をかけた。だが、彼の胸には小さな棘が刺さったような、微かな不安がよぎっていた。

 レティシアは再びアーノルドの手を握りしめた。

「夢の中でね、私たち、家族が増えたのよ。ガフっていうの。額に角の生えた、真っ白な馬。あなたと、ジョンと、それからガフと……」

 レティシアは、まるで子供に物語を語り聞かせるように、夢の中の出来事を話し始めた。
 ジョンを乗せて庭を散歩したこと。月明かりに照らされて、その毛並みが本当に綺麗だったこと。
 彼女は必死だった。
 この素晴らしい体験を、愛する家族と分かち合いたかった。

 しかし、アーノルドとジョンの顔に浮かぶのは、優しい、けれど困惑した表情だけだった。
 彼らはレティシアの話を遮りはしない。
 ただ、どう反応していいか分からずに、相槌を打つことしかできない。

 その微妙な空気が、病室の隅々まで満たしていく。
 レティシアの言葉は宙に浮いたまま、どこにも届かずに消えた。
 握りしめられたアーノルドの手の中で、彼女の指先が氷のように冷たくなっていくのが分かった。
 彼女の呼吸は浅く、速くなり、その視線はもはや夫や息子の顔を捉えてはいなかった。
 何か見えないものから逃れるように、彼女の瞳が激しく揺れる。
 ついに、張り詰めていた糸が切れたかのように、彼女の表情が崩れた。

「違う! こんなのは私じゃない!」

 彼女は頭をかきむしり、その場にうずくまった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……こんな母親で、こんな妻で、ごめんなさい……でも、耐えられないの……現実の私って、いつも空回りで、気の利いたことが言えなくて……夢の中の私は、こんなじゃなかったのに!」

「そんなことない。ジョンも私も、君に会えて、君の話が聞けて、とてもうれしいんだ」

「違う、違うの! 分かってるけど、そうじゃないの! 全部、全部嫌なの! 嫌いなの! お願い、本物の私を返して!」

「君は本物だ。本物の君は、ここにいるじゃないか」

「……これが、こんなものが私? これが、本当?」

 その問いは、もはや誰に向けたものでもなかった。
 彼女はか細い声で「イヤ」と首を振り、その否定の言葉は次第に熱を帯びていく。
 やがてそれは、意味のある言葉の連なりを拒絶するように、ただただ甲高い音となって彼女の喉から迸った。
 人間のものであるとは思えない絶叫が、狭い病室の空気を震わせる。

 アーノルドは必死にその細い体を抱きかかえようとするが、レティシアは狂乱した力で彼を突き放した。
 彼は助けを求めるように、部屋の隅に立つ白衣の男を見た。
 男は静かに、しかしどこか悲しげに頷くと、用意していた注射器を手に近寄ってきた。
 アーノルドが再び妻の腕を固く掴んで動きを止めると、男は手早くその首筋に鎮静剤を注射した。
 レティシアの絶叫はそれでも止まらず、薬が効き始めるまでの数秒間、その声はさらに甲高くなった。
 やがて、その声がかすれ、途切れ、そして完全に沈黙したとき、彼女の体から力が抜け、静かに床へと崩れ落ちる。
 アーノルドは床に膝をつき、意識を失った妻の上半身を抱きかかえ、ただ呆然としていた。
 ジョンの嗚咽だけが、静まり返った病室に響いていた。

 アーノルドは、白衣の男に手伝われ、意識を失った妻を台座の上にそっと横たえた。
 ドームが静かに閉じていき、彼女の顔が半透明の向こう側へと消えていく。
 アーノルドは、その表面に映る自分と息子の歪んだ影を、ただ黙って見つめていた。

 重い足取りで病室を後にし、無機質な廊下を歩く。
 ジョンの小さな手は、固く握られたままだった。

 しばらく歩いたところで、ジョンがぽつりと呟いた。

「あんなの、ママじゃない」

 アーノルドはその歩みを緩めることなく、静かで、落ち着いた声で言う。

「……そうだな」

 その目は、真っすぐと正面を見据えていた。

「あれはママじゃない」

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