[RIDE THE LIGHTNING] Chapter09

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 マイケが目覚めると、間近に迫るコンクリートの壁があった。
 視界の上下左右の端も同じような鼠色で、しかもそのじめっとした感じが気色悪さとなって彼女の頬を舐めまわしたので、辺りを見渡すまでもなく、なんとなくではあるがそこがどういう空間であるのかを把握した。

「目が冷めたか」

 背後から男の声がした。
 まだ意識がはっきりしないマイケには、声の主が明確に誰とまでは分からなかったが、声そのままの特徴とは関係なく、沸々と湧き上がる背後の男への憎悪の念から、漠然と因縁のような記憶の末端に触れた感じがあった。

「ここは……?」

 マイケは間の抜けた声で問うてすぐ、少なくとも背後にいるのはそのような隙を見せるべき相手ではないはずだと己を恥じた。

「留置所というやつだ」

 男の無遠慮な声で、マイケは因縁を確信した。

「それで、アンタは俺になんなんだ?」

「君を笑いに」

 そしてついに因縁の輪郭は意識とともに鮮明になり、マイケの顔は怒りに歪んだ。
 床についていた左手に荒々しく力を込め、振り向きながらに立ち上がる。
 眼前に現れたのはやはりあの軍人デイヴ――と、行く手を阻む鉄格子。
 だが、気づいたころにはすでにマイケの脚はデイヴに飛び掛からんと床を踏み切っていた。
 鉄格子と今にもぶつかりそうになる。
 しかしマイケは無意識に前に突き出した両手で器用にも格子を鷲掴みにし、デイヴを睨みつける。

「冗談さ」

 からかうデイヴを気にも留めず、マイケはすぐに自らの行いを恥じることをした。
 あれだけ頭に血が上っていたというのに、ああして踏みとどまれたのは何故か。
 どうして無様にも格子に頭をぶつけなかったのか。
 それは、マイケにはなんとなしに自分が牢の中にいることが分かっていたからだ。
 では何故、なにも出来ないと分かっていてデイヴに向かって行ったのか。

「いちいち人を逆撫でる奴め……オイッ」

 こうして威嚇してやるためだ。

「なんだ?」

 威嚇して……怒りを顕わにする自分を演出するためだ。

「盗人猛々しく言わせてもらうが、どうして警備の仕事を引き受けた」

 マイケは、この期に及んで体裁を気にしている自分が許せなかった。
 それどころではないはずだというのに……何故?

「あれは屋敷のセキュリティだ。私の知ったことではない」

 そうだ。
 この男一人相手の外面など気にしている場合ではないのは、青年の――アンドレイの、死のためだ。
 アンドレイは死んだのだ。
 目の前の男の部下に追われ、館のセキュリティに焼かれて死んだ。
 だから自分の見え方などはどうでもよいはずなのだ。
 だから目の前のこの男はどうでもよくないはずなのだ。

「アンドレイのことか……アンドレイのことか! お前、よくも! アイツは、アイツはなぁ! 鈍かったけど、良いやつだった! それを……それをお前は!」

「セキュリティだったと言っている。君のボーイフレンドは、意地悪な屋敷の主が仕掛けたセントリーガンに蜂の巣にされた。それだけのことだ」

 何食わぬ顔のデイヴに、闇雲に届かぬ言葉をぶつけることに、一層後ろめたさを感じたマイケは思わずデイヴから目を逸らした。

「しかし、知っていた。そして止めなかった」

 そして、冷静に振舞わんと、そう読み上げるようにして言った。

「余計な仕事はしたくないのでな」

「鬼畜め!」

「仕事を引き受けたのは、偉くなるためだ。命じられた仕事は、逆らわないほうが身のためになる」

「見殺しにすることはなかったはずだ!」

「君らのような盗っ人を一人二人殺めたとて、私のキャリアに傷がつきもしなければ、私が取り乱すこともない」

「しかし、俺達が盗んだ金は、あんたらが助けない大勢を救う」

「いくらだ」

「三百だ」

「違う。ゼロだ」

「なにがさ!」

「私のボーナス」

 マイケは掴んでいた格子をガンッと強く揺すってみせる。

「そんなもの無くったって、アンタの暮らしは豊かなはずだ。フカフカのベッドの上。土の匂いを嗅ぐこともあるまい」

「私にも娘と嫁さんがいる。娘とは私が昇進すればお祝いにディズニーランドに連れていくと約束をしている。娘の悲しむ顔は見たくない」

 Aletheiaやその類似製品の普及は、販売規制や回収命令によってある程度までは食い止められたが、その余りに魅惑的な風評故に、不正利用者が後を絶たなかった。
 人々の関心を少しでもAletheiaから逸らすために、日本を含む一部の国々で実施された施策として、娯楽施設への大規模な支援がある。
 そういった事情もあって、夢の国は今日においても安定した運営が維持されていた。

「約、束……?」

「貧民街の女とて、約束の意味を知らないわけでもあるまい」

「うるさい! お前には関係にないことだ! ……ワールドでいいだろう。なんだって、海を越えるんだ」

「娘の希望だ」

「……しかし、俺達はそういう我儘も言えない暮らしを強いられているんだ。そんな我儘で、アンタは人を喰い潰すのかよ」

「私の知ったことではないと言っている」

「あんたの娘と同じぐらいの年の子も、飢えて死ぬんだ。それでもなんとも思わないと言うのなら、俺はアンタを人でなしと呼ぶ。他人を思いやれるのが人間のはずだ」

「違うな。人間の感情というのは、生物が種の繁栄のために備えた繁殖や防衛の本能が進化の過程で発達、複雑化した結果、それ自体が存在意義となったものだ。種の保存という目的と、その為のシステムの優先順位が逆転した。そういうものを人間というのだ。であれば、エゴこそが人間の人間たる所以と言えるだろう。思いやりなどというのは、種を守るための原始的な防衛行動に過ぎない。だから、犬畜生とて思いやることをする」

「確かに、思いやりは人間の特権ではない。けれど、エゴが人間のアイデンティティだというのは……」

「気にくわないか? しかし、エゴとは自己。その心の有り様だ。誰もが感情を持つ今日の人類にとって、感情こそが何よりも大事なのは当然ではないか?」

「でも……だからこそ、その感情をもつすべての人間が、等しく価値あるものなんじゃないか!」

「そうとも言うが、しかし、その価値を断ずるのも結局は各自のエゴだ。全体を重んじ、己がエゴを蔑ろにすることは、それこそ犬畜生、いいや、蚊トンボ以下だ」

「それでも、思いやりのない人間なんて……」

「む……更にいうなら、他人に思いやりを求めること。優しさを強要すること。それもまた、エゴというものだ」

「だったら、私達に貧困を強いることもエゴだろう!」

「そうだと言っている。私は、エゴを否定したつもりはない」

「しかし、誰もがエゴを押し通すだけでは……」

「それが案外上手くいくものなのだよ。事実、この国とて権力者と民衆、互いのエゴによって現在のバランスが保たれている」

「そうだろうさ。アンタの中ではな!」

「君とて、そのバランスの中で今までやってきたのだろう」

「ああ。ギリギリな……しかし、アンタが崩した! 昨日!」

「一昨日だ」

「えっ……二日も寝ていたのか、俺……」

〔アイオワ州グライムス グレゴリオ暦2061年9月20日 08:32 p.m. -6〕

「なかなかに可愛い寝顔だったぞ。写真もある。見るか?」

 マイケは再び男から目を背けた。

「気色の悪い顔。恥ずかしくもない」

「そうか。しかし、壊されたならば、その牢屋の中に新しいバランスを見つければいい」

「それは無関心というものだ!」

「ハッハッハ、私の関心が欲しいか?」

「……いや、いい。去れ」

「しかし、君ははじめのうちこそボーイフレンドが殺されたことの恨み言を言っていたが――」

「アンタを責めることを止めたつもりはないが」

「そうだが、君の関心は、私を追及することに移っていたように思う」

「俺が薄情だと言いたいのか?」

 デイヴは不思議そうな顔をした。

「そうは言わない。ただ君に、感心したと言いたい」

「嫌味なんだろ。なら同じことだ」

「こういう時に、真っ当に言葉を交わせる人間はそう多くないということだ。普通はもっと、滅茶苦茶な言い様になる」

「それでおだてているつもりなら、言葉が人の心の全てでないと知れ」

「それもそうか。食事は要るか?」

「ムカつくが……向かっ腹は空く。よこせ」

「行儀のいいことだ」

 デイヴは牢に備え付けられた配膳口を開けて小皿を差し入れる。
 マイケはそれを手に取り、眉をひそめる。

「なんだこれは?」

「ん?」

「これはなんだと聞いている!」

「ブルーベリーチーズケーキ」

「なんでこんなものがある」

「シェフがいるからだろう」

「配給をすればいいだろう」

「パンがなければなんとやらというわけか。しかし、多すぎる」

「余っているなら、なおさらだ!」

「多すぎるのは、配給を求める人の数だ」

「あ、ああ……」

「我々なりの思いやりというものだ」

「それは違う」

「そうか。ん。時間だ。失礼する」

「失礼だったよ!」

 デイヴが立ち去ったのを確認すると、マイケは床に皿を置き、格子の方を向いて座り込む。
 そして、ブルーベリーチーズケーキを見つめてボソッという。

「……アイツ、なんていうんだ?」

 マイケはやがてそれを手に取って一口食べた。

「悔しいが、美味い……」

「思いやりのない人間が許せないか?」

 背後から女の声がした。

「目が冷めたか」

 褐色肌の少女が目覚めると、正面にはコンクリート造りの壁があった。

「ここは……?」

 少女は間の抜けた声で問うてすぐ、顔を強張らせた。

「留置所というやつだ」

 背後から男の声。
 少女は目を見開き、そして壁を睨む。

「それで、アンタは俺になんなんだ?」

「君を笑いに」

 少女の顔は怒りに歪んだ。
 床についていた左手に荒々しく力を込め、振り向きながらに立ち上がる。
 眼前に現れたのはあの背の高い軍服の男、そして二人を隔てる鉄格子。
 少女は軍服の男に向かって駆け、格子を鷲掴みする。
 そして睨みつける。

「冗談さ」と、軍服の男。

「いちいち人を逆撫でる奴め……オイッ」

「なんだ?」

「盗人猛々しく言わせてもらうが、どうして警備の仕事を引き受けた」

「あれは屋敷のセキュリティだ。私の知ったことではない」

「アンドレイのことか……アンドレイのことか! お前、よくも! アイツは、アイツはなぁ! 鈍かったけど、良いやつだった! それを……それをお前は!」

「セキュリティだったと言っている。君のボーイフレンドは、意地悪な屋敷の主が仕掛けたセントリーガンに蜂の巣にされた。それだけのことだ」

「しかし、知っていた。そして止めなかった」

 少女は読み上げるように言った。

「余計な仕事はしたくないのでな」

「鬼畜め!」

「仕事を引き受けたのは、偉くなるためだ。命じられた仕事は、逆らわないほうが身のためになる」

「見殺しにすることはなかったはずだ!」

「君らのような盗っ人を一人二人殺めたとて、私のキャリアに傷がつきもしなければ、私が取り乱すこともない」

「しかし、俺達が盗んだ金は、あんたらが助けない大勢を救う」

「いくらだ」

「三百だ」

「違う。ゼロだ」

「なにがさ!」

「私のボーナス」

 少女は掴んでいた格子をガンッと強く揺すった。

「そんなもの無くったって、アンタの暮らしは豊かなはずだ。フカフカのベッドの上。土の匂いを嗅ぐこともあるまい」

「私にも娘と嫁さんがいる。娘とは私が昇進すればお祝いにディズニーランドに連れていくと約束をしている。娘の悲しむ顔は見たくない」

「約、束……?」

「貧民街の女とて、約束の意味を知らないわけでもあるまい」

「うるさい! お前には関係にないことだ! ……ワールドでいいだろう。なんだって、海を越えるんだ」

「娘の希望だ」

「……しかし、俺達はそういう我儘も言えない暮らしを強いられているんだ。そんな我儘で、アンタは人を喰い潰すのかよ」

「私の知ったことではないと言っている」

「あんたの娘と同じぐらいの年の子も、飢えて死ぬんだ。それでもなんとも思わないと言うのなら、俺はアンタを人でなしと呼ぶ。他人を思いやれるのが人間のはずだ」

「違うな。人間の感情というのは、生物が種の繁栄のために備えた繁殖や防衛の本能が進化の過程で発達、複雑化した結果、それ自体が存在意義となったものだ。種の保存という目的と、その為のシステムの優先順位が逆転した。そういうものを人間というのだ。であれば、エゴこそが人間の人間たる所以と言えるだろう。思いやりなどというのは、種を守るための原始的な防衛行動に過ぎない。だから、犬畜生とて思いやることをする」

「確かに、思いやりは人間の特権ではない。けれど、エゴが人間のアイデンティティだというのは……」

「気にくわないか? しかし、エゴとは自己。その心の有り様だ。誰もが感情を持つ今日の人類にとって、感情こそが何よりも大事なのは当然ではないか?」

「でも……だからこそ、その感情をもつすべての人間が、等しく価値あるものなんじゃないか!」

「そうとも言うが、しかし、その価値を断ずるのも結局は各自のエゴだ。全体を重んじ、己がエゴを蔑ろにすることは、それこそ犬畜生、いいや、蚊トンボ以下だ」

「それでも、思いやりのない人間なんて……」

「む……更にいうなら、他人に思いやりを求めること。優しさを強要すること。それもまた、エゴというものだ」

「だったら、私達に貧困を強いることもエゴだろう!」

「そうだと言っている。私は、エゴを否定したつもりはない」

「しかし、誰もがエゴを押し通すだけでは……」

「それが案外上手くいくものなのだよ。事実、この国とて権力者と民衆、互いのエゴによって現在のバランスが保たれている」

「そうだろうさ。アンタの中ではな!」

「君とて、そのバランスの中で今までやってきたのだろう」

「ああ。ギリギリな……しかし、アンタが崩した! 昨日!」

「一昨日だ」

「えっ……二日も寝ていたのか、俺……」

「なかなかに可愛い寝顔だったぞ。写真もある。見るか?」

 マイケは再び男から目を背けた。

「気色の悪い顔。恥ずかしくもない」

「そうか。しかし、壊されたならば、その牢屋の中に新しいバランスを見つければいい」

「それは無関心というものだ!」

「ハッハッハ、私の関心が欲しいか?」

「……いや、いい。去れ」

「しかし、君ははじめのうちこそボーイフレンドが殺されたことの恨み言を言っていたが――」

「アンタを責めることを止めたつもりはないが」

「そうだが、君の関心は、私を追及することに移っていたように思う」

「俺が薄情だと言いたいのか?」

 軍服の男は不思議そうな顔をした。

「そうは言わない。ただ君に、感心したと言いたい」

「嫌味なんだろ。なら同じことだ」

「こういう時に、真っ当に言葉を交わせる人間はそう多くないということだ。普通はもっと、滅茶苦茶な言い様になる」

「それでおだてているつもりなら、言葉が人の心の全てでないと知れ」

「それもそうか。食事は要るか?」

「ムカつくが……向かっ腹は空く。よこせ」

「行儀のいいことだ」

 軍服の男は牢に備え付けられた配膳口を開けて小皿を差し入れる。
 少女はそれを手に取り、眉をひそめる。

「なんだこれは?」

「ん?」

「これはなんだと聞いている!」

「ブルーベリーチーズケーキ」

「なんでこんなものがある」

「シェフがいるからだろう」

「配給をすればいいだろう」

「パンがなければなんとやらというわけか。しかし、多すぎる」

「余っているなら、なおさらだ!」

「多すぎるのは、配給を求める人の数だ」

「あ、ああ……」

「我々なりの思いやりというものだ」

「それは違う」

「そうか。ん。時間だ。失礼する」

「失礼だったよ!」

 軍服の男が立ち去ったのを確認すると、少女は床に皿を置き、格子の方を向いて座り込む。
 そして、ブルーベリーチーズケーキを見つめてボソッという。

「……アイツ、なんていうんだ?」

 少女はやがてそれを手に取って一口食べた。

「悔しいが、美味い……」

「思いやりのない人間が許せないか?」

 背後から女の声がした。

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