[RIDE THE LIGHTNING] Chapter33
女はふいにステップを止めると、スカートの裾を揺らしたまま小さく会釈した。
「あら博士。それにミズキ少将、ごきげんよう」
淡く笑う声が、滲み澱んだ赤い血と青薔薇の花弁で彩られた床に落ちた。
アーノルドは肩をすくめ、あくびでも噛み殺すように言う。
「……なるほど、これがあなたの言う常識を覆す研究の成果か。いやぁ、たまげた」
アレーテイア・クライシスの折、暴動鎮圧の現場で隣人同士が殺し合う光景を飽きるほど見た男には、この異様な演出もさほどの衝撃ではなかった。
それはデイヴも同様であり、血の海を一瞥して鼻を鳴らす。
「芸術的な、一幕ですね。白鳥の湖とはこうでしたか」
アーノルドは、デイヴが口にしたその演目の名こそ知れど、その内容については皆目無知であったあったために、眼前に広がる状況のどの辺りが白鳥の湖と類似しているのか、それが分からず、自らの教養のなさを恥じた。
「ハネムーンの飛行機で見たんです。妻と一緒に」
そう言われてはじめて、アーノルドは、自身が無意識にデイヴに関心の眼差しを向けていたことに気づいた。
「ああ。君の奥さんは、映画好きだったな」
「ええ。私も、映画を見ている時の家内は可愛いんです」
「そう、か……」
しかしデイヴは、新婚旅行の飛行機で妻と鑑賞したバレエを題材とした映画を白鳥の湖と誤解していたうえに、その記憶と、妻から伝え聞いた鳥の登場する民話を聞いて当時連想したイメージとを混同しており、結果として、白鳥の湖には羽毛の舞う中、自身にそっくりな者を殺し、舞う場面があるものと思い込み、それを我が物顔で語ったにすぎないのであった。
そのやり取りを聞きながら、ノアの顔色がさっと失われる。
ふらりと前に倒れかけた身体を、アーノルドが素早く支える。
――彼女の幼い頃には暴動もあったろうが、それとは無縁でいられる安全な街で育ったのだろう。
などと、アーノルドは心の中で思った。
無言で体を起こさせると、ノアは浅く一礼し、か細い声で礼を述べて自力で立ち直った。
「紹介させていただきます」
震えを押し殺しつつ、ノアは女を指す。
「彼女がカエデ・ヘットフィールド女史。ここの技術スタッフを統括しておられます」
「違います」女はそれを否定する。
「え、違う? それじゃあ……」
ノアは女の足元の死体に目を落とす。
「ヘットフィールド? ちょっと待て」アーノルドが眉をひそめる。
デイヴが頷く。
「確か、バイソン社の社長も、そんな姓でしたね」
バイソン・インターナショナル――Aletheiaをリリースした企業。
「失礼だが、もしやあなたは、あのバイソン・ヘットフィールドのご夫人か?」
アーノルドの問いに、女は肩をすくめる。
「ですから、違います。ああ、こっちはそうですけど」
そう言って、死体を靴先で軽くつつく。
「そんな、カエデ!」
ノアは悲鳴まじりに死体へ駆け寄った。
デイヴが手を叩くように言う。
「なるほど、わかりましたよ」
「……何がだ?」とアーノルド。
「彼女はクローンなのでしょう。つまりここでは、遺伝学的に兵士を量産する研究が進んでいる――そういうことでは?」
「ああ、スターウォーズみたいな」
「は?」
デイヴは首をかしげる。
スターウォーズシリーズに関しても、デイヴは妻とともに、外伝作品含めそのほとんどを鑑賞済みであったのだが、彼の創作物全般に対する無関心は、クローン・トルーパーの存在を忘却させるに十分すぎるものであった。
彼にとっては、映画の思い出とは、すなわち愛する妻と過ごした思い出なのであって、決して、その内容に関わるものではなかったのである。
しかし、彼にとって妻との映画鑑賞は全く苦でなかった。
それどころか、愛する妻の普段とは違う表情を垣間見れるという意味で、至福の時間ですらあった。
シャイニングを乗せた車で、普段は聴かない音楽をかけるのも同様の理由からであった。
しかし、そんな事情を知る由もないアーノルドは、デイヴの舞台の知識に対抗して、うっかりデイヴが生まれる以前の、しかも俗っぽい映画を引き合いに出してしまった己の若さを恥じた。
アーノルドは小さく咳払いし、言い直す。
「いや、つまりクローン兵の軍団か。新技術とは、そんなものか」
アーノルドは友人を失ったと見えるノアを憐れみつつ、思案する。
――確かにこれから兵士は減るだろう。
が、だからといって作り物の兵士で補填してなんになるか。
いっそ万能の傀儡と割り切れてしまえばそれでもいいかもしれないが、こうも人間そっくりではかえってやりづらい。
まして、主人を殺めるようでは……
『それは違うぞ』と、インワーゲン。
「では新技術とは何です?」
インワーゲンは一瞬言葉を探し、肩越しにノアを仰ぐ。
『あー……少将、説明をはじめてもよろしいか?』
ノアは小さく頷き、手早く言った。
「この先に彼女のラボがありますので、そちらに向かいながらでも。彼女の遺体は――他の者に処理を任せます」
アーノルドは、改めてノアを見つめる。
「君はいいのか?」
「彼女とは、それほど長い付き合いでもありませんので」
「そうか……では行こう」
アーノルドは短く息を吐くと、重い足取りで先導を促した。
ノアはすぐさまその意を汲み、アーノルドの前に出る。
デイヴもそれに続く。
ノアとデイヴは血だまりを避けて進んだが、アーノルドは構うことなく遺体を跨いだ。
アーノルドには、このような小さな事件を大袈裟に捉えることは、先刻核によって奪われた大勢の市民の生命を軽視することのように思われて、かえって躊躇われたのである。
しかし、そんな彼の思惑など知る由のないデイヴには、アーノルドのその振る舞いが、信念と優しさを兼ね備えた普段の彼のそれとは著しく乖離したものに思われて、困惑させた。
インワーゲンのカートは、遺体を避けこそすれ、血だまりには構わず通過し、その車輪にべったりと血の跡をつける。
女は遺体を踏みつけ、その後ろを歩く。
「それで、新技術とは?」と、デイヴが切り出す。
『さて、何から話そうか……ではデイヴ君。君は、この私をなんだと思うね?』
デイヴは顎に手をやり、少し思案した後、次のように返す。
「AIでしょう。性能は全く違うのかもしれないが、本質的にはそこいらのチャットボットとなにも変わらない。本物の博士の言動だとか思考のパターンだとかのデータを、とにかくたくさんインプットして、学習させて、それらしいものを出力する。所詮は、コンピュータの猿真似だ」
これに、タブレットの中の博士はふっと笑う。
『残念ながら、不正解だ。だが気に病むことはない。ここでされている研究が、それだけ先進的なものだということなのだから』
「そう思いたいものだが。それで?」アーノルドは片方の眉を吊り上げて言った。
『私を単なる生成AIだと思った君は、もしかすると、こう考えたのかもしれないな――人間の思考は、脳の働きただそれのみから成る――と。だから脳の神経系を参考にした、ニューラルネットワークの仕組みで動く人工知能ならば、人間の思考すらも再現できると』
「AIの仕組みなぞ知りませんが、実際、あなたのように絵が動いて会話が出来るAIなんてそこいらにいくらでもあるでしょう。そういうものとあなたは何が違うというのです。その憎たらしさですか?」と、デイヴは返す。
『実際、私も脳の演算処理能力を再現するために、君の言うAIとほとんど同じ仕組みを利用している。だが、君たちも恐らくはそうであるように、私が何かを想うとき、物理的な脳神経の働きとは別に、私の意識、心とも言うべきものの働きが成立している』
「それは……脳の働きによって起こっていることでしょう」
『いや。脳が担っているのは単なる情報処理の機能であって、それだけでは我々が思い描く心象風景だの情念の動きだのといったイメージを成立させることはできない』
「なにを。コンピュータとて、映像情報を処理して表示できるだろう」
『コンピュータは、電気信号……否、電流を処理して、ディスプレイに伝達しているだけ。ディスプレイも、その電流によって光っているというだけだ。それを情報だとか信号だとか、あるいは映像だとかと認めるのは、それを観測した我々の意識が、その意味をイメージする働きに他ならない』
「AIによる画像認識の技術だってあるでしょうに」
『入力された視覚情報を、解析……フフッ……して、その結果を誰が受け取るのかという話だ。AIは数値しか返さんし、脳には電気が流れるだけだ』
インワーゲンとデイヴのやり取りに痺れを切らしたアーノルドが口を開く。
「では是非ともお聞かせ願いたいものですが……たしか、我々が夢を見ているとき、それは脳波の状態に現れる。その脳波から、見ている夢の風景を再現する技術というのもあったはずです。これは我々の意識が脳の働きによって成るという何よりの証拠ではないのですか?」
『確かに君の言うように、我々の脳の活動には、意識のそれとの対応関係が認められる。だがそれは、意識が、すなわち脳の働きだからではない。脳と、意識とが、互いに影響しあっているために、その反応が脳の側に現れているというだけのことなのだ』
「……デイヴ、博士の言うことが分かるか?」
アーノルドは、デイヴの方を見て言う。
「いいえ、全く」と、デイヴ。
その時、最後尾で女が靴をタタンッと鳴らし、発言する。
「理屈は理解できなくとも結構です。ひとまず、私たちの意識は、脳や、その辺の物質とは別の位相に存在すると言うことをまずは押さえてください」
「位相?」デイヴは首をかしげる。
「では霊界といえば分かりますか?」
「なんだそれは?」アーノルドは目を細めて問う。
女は、諦めたような顔で言う。
「……わかりました。とにかく、目に見えない魂のようなものがあると思ってください」
「うむ」
アーノルドは、彼女の言に納得したというよりも、いい加減彼らの言に異を唱えるのが馬鹿らしく感じられて、そのために頷いた。
「言ってしまえば、ここではその魂を扱う技術の研究をしています」
「……なるほど。そのような技術であれば、他国の要人の頭の中を覗き見ることもわけはないというわけか。大統領も考えたものだ」
口ではそのように言いながらも、その目は二人に疑いの眼差しを向ける。
なにせタブレットの博士と、殺人クローンである。
それらしいことを言ってはいても、そもそも人間として信用ならない。
「ええ。まさにその通りです。もっとも、意識を遡って記憶を読み取る技術はまだ実用レベルには達してませんし、だからこそ、ここの研究は未だ明るみになってはいないわけですが」
「まあ、そうだろうな」
アーノルドは、うっかり自身の無関心を露わにしてしまったことに気づき、女の顔色を横目で窺う。
女はキョトンとした様子で、こちらを見つめ返す。
アーノルドはとっさに目をそらす。
「それで?」
アーノルドの問いに、今度はインワーゲンが応える。
『それに限らず、我々の研究は革新的でありこそすれ、中国や、ましてRIDE THE LIGHTNINGを出し抜けるようなものではないのだ。私はタブレットに人間の魂を宿しているだけ。そこの彼女も、人でないものに人造の魂を与えただけ。ただそれだけだ』
「人でない?」
と、眉間にしわを寄せるデイヴに構わず、インワーゲンは続ける。
『そもそもRIDE THE LIGHTNINGにはここで研究している技術が、いや、それを遥かに凌駕する技術が間違いなく採用されている。手の内は知れていると言っていいだろう』
「では我々をここに呼んだのは何のためです」と、アーノルド。
「これだよ」
インワーゲンがそう言うと同時に、照明が点灯する。
その黄色がかった明りに映し出されたのは――吊り下げられ、全身をだらりとさせた黒いヒューマノイドであった。
「これは……黒い、RIDE THE LIGHTNING?」
「いえ。これはIRONMAIDEN。RIDE THE LIGHTNINGと同時期に造られた、戦闘タイプのマシーンです」