[RIDE THE LIGHTNING] Chapter36
〔イリノイ州シカゴ グレゴリオ暦2061年9月22日 11:58 p.m. -6〕
普段であれば残業はしない主義のデイヴだったが、イリノイの基地に移動した直後ということもあり、この日に限っては残業もやむを得ないと腹を括っていた。山積する業務を適当なところで切り上げ、彼はあの廃墟へと向かった。時刻は真夜中を指そうとしていた。夜の冷たい空気が肌を刺す。無数に植えられた青い薔薇が、基地の非常灯の赤い光を受けて、不気味な紫色に浮かび上がっていた。
そこにマリアの姿があった。静かに佇んでいる。
「こんな夜更けに一人か」
デイヴが声をかけると、マリアはゆっくりと振り返った。
「あなたこそ。私を口説きに来たのですか?」
「まさか」デイヴは肩をすくめた。「将軍や少将殿は、君のことをよく思っていないようだったからな」
だから一人で会いに来た。デイヴはそのように続けようとしたが、そういうより先にマリアが問うた。
「あなたは違うのですか?」
「外じゃ君のような人間は珍しくない」
マリアはわずかに目を見開いた。「私が、人間?」
「これから君と共に戦うことになるかもしれんからな」デイヴは続けた。「君のことを知っておきたいと思った」
マリアは何も答えず、ただじっとデイヴを見つめていた。沈黙を破らんと、デイヴは話のタネを探し、周囲の薔薇に目をやる。彼にとって、この歴史的な建造物を模した建築や特異な色の薔薇に特別な感慨はなかった。が、目に映る情景、その陰影や色の分布などをこれまでの対人経験に照らして、なるほどこれは美しいのだろうと考えた。
「見事なものだな。廃墟と、青い薔薇か。……芸術的だ」
マリアは、感情の読めない瞳で青い薔薇を一瞥した。
「かつて不可能と呼ばれた青い薔薇は、科学技術の進歩によって実現しました。カエデはその青い薔薇で負の遺産をこうも彩ってみせて、技術の進歩は人のあらゆる罪科を、原罪すらをも洗い流せると示そうとした。無神経で、傲慢な人でした」
その口調は淡々としていて、まるで他人事のように聞こえた。デイヴは、彼女の横顔を見つめながら、静かに問うた。
「だから殺した?」
マリアはゆっくりとデイヴに視線を戻した。その唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。
「いえ、そんなことはどうでもいいから殺したんです」
デイヴは、その思いがけない返答にわずかに眉を上げた。
「人が人を生み、増え栄え、その人々によって数多の過ちが生まれました。やがて復活する神の子が、悔い改めた者に赦しを与えるといいますが、審判の日は待てど暮らせど来ませんし、赦されると赦されざるとはどのように分たれるというのでしょう」
マリアは再び廃墟の方へと視線を戻し、まるで独り言のように続けた。
「神のみぞ知る。それだけのことだろう?」
デイヴは、こともなげに口にした。
「……信仰は?」
マリアは訝しげな視線を向け、彼の本心を探るように、静かに問い返した。
「ミサには毎週通ってたさ。神父と仲が良かったのでな」
デイヴは、わずかに肩をすくめながら、こともなげにそう言った。
「死んだらどうなると?」
マリアは彼の表情から何かを読み取ろうとするかのように、じっとその目を見つめた。
「わからない」
その即答に、一切の迷いはなかった。デイヴはただ、事実を告げるようにマリアを見つめている。彼のあまりに率直な態度に、今度はマリアの方が戸惑ったように、わずかに視線を彷徨わせた。
「今の話、ついてこれてます?」
その口調は、彼の真意を測りかねるように、わずかに試すような色を帯びた。
「ああ。最後の審判だろう。流石に知ってる。神父のおやじからも散々聞かされた」
デイヴは苦笑を浮かべた。馴染みの昔話でも聞いているかのようだった。
マリアは、念を押すように静かに続けた。
「つまり、信じてはいないわけですね」
「かもしれない。家内は死後の世界などないと言うし、娘は尸魂界に行くと言っていた。皆俺のリスペクトに足る人物だ」
デイヴは、どこか楽しそうにそう言った。
「そうですか」
マリアはそう短く応じると、ふっと視線を落とした。
「それで?」
デイヴは、話の続きを促した。
「カエデは、神に代わって人類の罪すべてを許すことができるとすれば、その営みの結実たる叡智によって生み出されたものだろうと考えたんです。人の叡智によって生みだされたものが、人の世の罪深さを認め、そのうえで、なおも生まれてきたことに感謝し、自らを生み出した文明を肯定したならば、人類は赦されたといえるだろうと。そのために私を造った。カエデは、私を天使にしたかったんです……けど、私はただの一人の人間です。そのつもりだし、そうありたい。大仰な役割なんて、要らないんです」
マリアの言葉は静かだったが、その響きには確固たる意志が宿っていた。デイヴは、その言葉を黙って受け止めた。そして切り出す。
「ならどうする?」
「えっ」
「人類の存亡を脅かす脅威と戦う。そのために、人類唯一の切り札とも言えるマシーンを駆る。これほど重大なミッションはないだろう。勝てば、君は英雄になる。そしてきっとどこかで、誰かが、君をまた天使と呼ぶ。これも嫌か?」
デイヴの問いに、マリアは一瞬だけ目を伏せた。そして、再び顔を上げた時、彼女の瞳には先ほどまでの困惑の色はなかった。
「ええ。癇に障ります」
その声は、夜の空気のように冷たく澄んでいた。
「ですが、人類の存亡がかかっている時にまでそのような些事にこだわりはしません。それが私にしか出来ないというのであれば、やってみせます。造り物の天使に与えられた使命としてではなく、一人の人間として、成すべきことをします」
デイヴは、その淀みない返答に、ただ静かに頷いた。
「そうか」
マリアは、デイヴの短い相槌の後、ふっと唇の端を上げた。その表情には、わずかに皮肉の色が浮かんでいる。
「どうです、テストは合格ですか?」
「テストか」デイヴは苦笑した。「そういうつもりはなかったんだが……今のスピーチも準備してたのか?」
「まさか」
マリアは、表情を変えずに即答した。
「しかし、確かに俺は、君のことをリスペクト出来ればと思ってここに来た。そういう意味では、俺は君のことをテストしていたんだろう」デイヴは一度言葉を切り、夜空を仰いだ。「不合格だ。君はリスペクトに値しない」
彼は再びマリアに視線を戻す。その言葉に、マリアの眉がわずかにひそめられた。
「俺がリスペクトする人たちは、皆俺にない何かを持っている。だからリスペクト出来る。だが君は俺に似ている。リスペクトの対象じゃない。残念ながら君は、俺の期待には沿わなかった」
デイヴは、表情から一切の笑みを消し、マリアをまっすぐに見据えた。
「だが、だからこそ信頼できる。君の言葉に嘘はないと信じられる」
マリアは、その奇妙な論理を数秒かけて吟味するように黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「つまり、兵士としては合格と?」
「もとより俺に、それを断ずる立場にはないよ」
デイヴはそう言うと、ふっと口元を緩めた。
「言ったろう? テストのつもりはないと」
デイヴはそう言うと、踵を返した。「邪魔したな」
「いいえ」
マリアの声が背後から聞こえたが、デイヴはもう振り返らなかった。薔薇は、夜の闇の中で静かに揺れていた。