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フランチェスカは、RIDE THE LIGHTNINGが盗みを働くために去ってから、ずっととあることを考えていた。
それはすなわち、真のガリアの教えとは何であるかということである。
RIDE THE LIGHTNINGはスパーキング・サンシャインを使うという。
それは教典においてもガリアの御業として語られているものであるのだが、フランチェスカは、RIDE THE LIGHTNINGと邂逅するより遥か以前からこの伝承に違和感を覚えていた。
ガリアの教えは努力と闘争を賛美し、それらを永遠に放棄する自死を禁忌とする。
ここで、他者の努力や闘争の機会を永遠に損する他殺を同様に禁じてはいないという点で、ガリアの教えは独我論的な性質を有すると言える。
また、ガリアの教えでは、あらゆる困難や障壁を乗り越えるための手段として正しい努力を重視する。これは一般的な道徳律に則って、不道徳でない範囲内で努力をしろということではない。先述したように、ガリアの教えは他者を害することに関して無頓着であるためだ。
ガリアの教えは、ただ闇雲に努力をしたことに満足し、それが報われなかった場合に自分を憐れむのではなく、絶えず目的を達するための努力(そのための適切な方法を知るための努力を含む)をし続け、その努力が実るまで諦めずに試行錯誤を続けよと主張している。
このような特徴を有するガリアの教えにあって、超越者ガリアが俗人たちを救済する御業であるというスパーキング・サンシャインの伝承は明らかに異質であり、矛盾を孕んでいるように思われる。
そうは言っても、教典に記されている以上、一信仰者に過ぎないフランチェスカとしては、当の教えを排除するわけにもいかず、どうにか整合的な解釈を試みる他なかった。
しかし、実際にスパーキング・サンシャインを使うというRIDE THE LIGHTNINGと相対してみて(そもそも甲冑のような姿で現れるという話のも伝承にはないのだが)、その言動が明らかにガリア的でないと感じたフランチェスカは一つの可能性に至った。
それは、現代に伝わっているガリアの教えの内には出自の異なる伝承が混じってしまっているのではないかということである。
つまり、ガリアの教えが長い年月をかけて人から人へと伝えられていく過程で、あの甲冑=RIDE THE LIGHTNINGにまつわる伝承が混じった。その結果として、現存する教典にスパーキング・サンシャインの記述が生じてしまったのであって、本来、純粋なガリアの教えの内にはスパーキング・サンシャインについての言及はないのではないかということなのだ。
このような仕方で教典を読み解くことを許容するならば、同様の仕方で、ガリアの教えにおける天国の概念も問うことが可能となる。
天国は知を極め、驚嘆した者が至るとされる。
ガリアの教えにおける知の扱いについては、フランチェスカも十分に理解しきれているわけではない。
しかし、少なくともガリアの教えが賛美する努力や闘争によって獲得されるものとされているのは確かだ。
そして、努力や闘争の果てに知が極まると驚嘆し、天国へと昇る。
この時ようやく、人間はあらゆる苦役から解放されるというわけだ。
つまり宗教的善の実践によって、苦役からの解放という救済が与えられる。
それを天国と呼ぶ。
よくわかる話だ。
しかし、なぜ天国へと昇ることを驚嘆と呼ぶのか。
天国というのが驚くべき場所だからだろうか。
……否、この問いの立て方は適切ではないだろう。
なぜならガリアの教えに出自の異なる伝承が混じっているとするならば、それは驚嘆という特異な語ではなく、天国や受肉などといったそこいらの宗教にも見止められる、ありきたりな概念の方だろうからだ。
――ではなぜ、驚嘆することで至る境地が天国と呼ばれるようになったのだろうか。
フランチェスカはその問いに向き合う中で、あることに気づく。
それは彼女が、天国という語の持つ印象から、驚嘆がガリアの教えの究極的な目標であるかのように錯覚していたということである。
改めて教典を読み返してみると、ガリアの教えが驚嘆すること、天国へと昇ることを賛美している個所は一つもない。
ガリアの教えが賛美しているのは、一貫して努力や闘争のみである。
それに、考えてみれば、苦役からの解放は努力や闘争とは真逆の事柄であるように思われる。
ガリアの教えが驚嘆を目指すものでないとするなら、驚嘆が天国と呼び変えられた理由も合点がいく。
ただひたすらに努力や闘争を要求する教えは、救いや慰めを求める俗人たちに対する訴求力を著しく欠く。
教えが広まり、今日まで語り継がれるためには、それら苦役に対して相応の報酬が設定される必要があった。
その報酬として、努力や闘争の末に至るという驚嘆は都合がよかったのだろう。
ゆえに、驚嘆の本質を覆い隠し、魅惑的な報酬に感じさせるべく、天国という偽りの名を与えられたのではないだろうか。
……だとして、ではなぜ、ガリアの教えは努力や闘争を賛美するのだろうか。
思うにそれは、それらが人間の、あるいは生の本性であるためだ。
人は生きている限り、決してそれら営みから逃れることはできない。
なぜならば人の知性は、万事を問い疑う気性を持つがゆえに。
それゆえ人は、自らの現状についてもまた無条件に受け入れるということが出来ず、批判し、改善せんとする営みを絶えず強いられる。
これはちょうど、今まさに教典を問い、疑う自らの姿にも重なる。
人は、逃れられぬがゆえにそれら営みを嫌悪し、解放されたいと望む。
だが、これは実に空虚な欲求だ。
なぜなら生の本性から解放されることとは、すなわち死に等しいのだから。
生まれ出でておきながら死を欲求するのであれば、初めから生まれてこなければよいだけの話である。
……否。そのように生の苦しみから逃れんと藻掻くこともまた、努力であり、闘争なのだ。
ゆえに、ガリアの教えにおいてはそのような空虚な欲求に由来する営みですらも賛美される。
真に軽蔑されるべきこととは、そのような人の本性に、宿命に溺れ、達観してしまうことなのだ。
そのことに思い至り、自らの宿命を真に受け入れたとき――フランチェスカは驚嘆した。